2010年2月13日土曜日

[書評] 遠近の回想(クロード・レヴィ=ストロース)

記念すべき第一回のレビューは、昨年齢100歳にして亡くなられたクロード・レヴィ=ストロースの『遠近の回想』を取り上げたい。

私が構造主義について多少なりともはじめて触れたといえるのが、高校時代に友人の貸してくれた内田樹著『寝ながら学べる構造主義』だった。世代的にも、浅田彰は既に過去の人であったので『構造と力』は当然知らないし、東浩紀を読むほど知的にマセてもいなかった。大学に入ってからの濫読で構造主義者たちの著作・解説書の類は幾分読んだが、きちんと体系づけて捕らえられていない、まあ早い話あまり理解できていないので、彼の死をきっかけに読んでみようと思った次第である。インタビューアーとの対話で進められる本書は短い19の断章およびエピローグから構成されており、タイトルが示すように彼の人生を振り返る内容であって、門外漢でもスラスラと読める。読み進めていくと感じたのが、レヴィ=ストロースの謙虚な人柄だ。後に教鞭をとることとなるコレージュ・ド・フランスについては、
それに、彼に対しても、他の人に対するのと同じで、自分は相手にかなわないという意識が、私にはありました。その一例を挙げますとね、そのころの私には、コレージュ・ド・フランスの講義を聴きに行くなどということは想像もできないことでした。私から見れば、コレージュ・ド・フランスは、私よりは優れた人たちだけが出入りできる特権的な場所だったのです。(38頁)
と語り、アグレガシオン実習同期のボーヴォワールとその恋人のサルトルについては、
エリポン シモーヌ・ド・ボーヴォワールとは、友だち付き合いをするようにはならなかったのですか?
 レヴィ=ストロース ありません。しかし、反感があったからでありませんよ。
 E 気が合わなかった、ということですか?
 L=S それでもありません。サルトルと彼女はすぐ有名になりました。知的世界においては、彼らは私よりもずっと上のほうの位置を占めていました。彼らには私の方こそ気後れを感じたし、彼らの方は私を必要としなかった。(27頁)
と語っている。内田樹が自身のブログにおける「追悼レヴィ=ストロース」と題したエントリーで、このような態度の裏の心情を想像しているが、私は内田樹の思い描くようなものではなく、本当に当時の彼にとってはサルトルやコレージュ・ド・フランスは別世界だったのだろうなと思う。たとえこの素直な感情の吐露が、その後の成功やサルトルを葬り去ったといわれる論争に促されているとしてもだ。(ちなみにボーヴォワールとレヴィ=ストロースは内田氏いうアグレガシオン試験の同期、ではなく、正確には「アグレガシオンの実習」の同期である)


レヴィ=ストロースの研究領域は大きく分けて二つの分野にわけられる。『親族の基本構造』(1949)にはじまる親族組織と婚姻規則の研究、そして『野生の思考』(1962)からはじまり、全四巻二千ページ以上の厚みをもつ『神話論理』(1964-71)によって完成する神話の研究である。しかしながら、彼が双方の研究で用いた手法は構造主義であり、本質的な部分では一貫している。
構造主義というのは、当時も今も、一つの研究方法なのであって、その研究は、同時代の多くの人間が気にかけていることとは、ほとんど何の関係もないということなのです。(173頁)
構造主義についてはたくさんの解説が出版されたり、web上にも解説がいろいろとあるので、一知半解の解説を書くつもりはない。最後に印象に残った文を一つだけ引用をして終わりたい。
私が言っているのは、人間は、人間がいつまでもこの地上に存在し続けるのではないこと、この地球というものもいずれは存在しなくなるのだということ、そしてその時には、人間が作り出したすべてが消えて何も残らないだろうということを十分に知ったうえで、それでも生活し、働き、考え、努力しなければならない、ということです。(289頁)

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